休むことに罪悪感があった本当の理由

昔の私は、休むことがあまり得意ではありませんでした。

体が疲れていないわけではない。
本当は休んだほうがいいことも分かっている。
それでも、止まることにどこか落ち着かなさがありました。
何もしていない時間があると、少しそわそわする。
動いていない自分を、うまく認められない。
休んでいるはずなのに、心のどこかではずっと緊張しているような感じがありました。

今振り返ると、あれは単に休み下手だったのではないのだと思います。
休むことそのものが悪いと思っていたというより、休むことが自分にとって別の意味を持っていました。
今回は、そのことを整理してみます。

昔の私にとって、休むことは「証明を止めること」だった

店長をしていた頃の私は、かなり極端な働き方をしていました。
やることが片付いていなければ、そもそも休むという選択肢がありませんでした。
シフトに穴が空けば、自分で埋めていました。
売上のことばかり考えていましたし、自分がいないと数字が落ちると思い込んでいたところもありました。

今思えば、かなり無理をしていたと思います。
でも当時の私は、それをおかしいとは思っていませんでした。
むしろ、そうやって動き続けている自分に価値を感じていました。

売上を作れている自分。
現場を回している自分。
穴を埋めている自分。
休まず動いている自分。

そういう自分は、有能で、必要とされていて、強くて、誇れる存在でした。

当時の私は、かなり無敵に近い感覚を持っていたのだと思います。
だから、昔の私にとって休むことは、単に体を止めることではありませんでした。
休むことで「役に立っている自分」「結果を出している自分」が止まってしまうことが怖かった。
今振り返ると、休むことは休息ではなく、価値を証明している自分を止めることだったのだと思います。

その回路は、店長になる前から始まっていた

今振り返ると、この感覚は店長になって急に始まったものではなかったのだと思います。

小さい頃から私は、周りから見て「いい子」でいようとしていました。
クラスでは人気者やムードメーカーのような立ち位置にいたかったし、まとめ役のようなポジションにも価値を感じていました。
周りを喜ばせるために、かなり無理をしていたこともあったと思います。
自然にそうしていた部分もありますが、今思えば、あれは少し呪いのようなものでもありました。

必要とされること。
場に貢献していること。
誰かに喜ばれること。

そういうもので、自分の価値や存在理由を支えていたからです。
逆に言えば、必要とされなくなることはかなり怖いことでした。

空っぽになる感じ。
弱くなる感じ。
つまらない感じ。
価値がなくなる感じ。
消えてしまうような感じ。

そしてその奥には、愛されなくなるかもしれないという怖さもあったのだと思います。

親からの視線。
親戚や先生や友達やクラスメイトの視線。

そういう周りの目の中で、自分の価値を確かめようとしていたところが、昔の私にはあったのだと思います。
店長時代は、その回路が仕事と成果で最大化されただけでした。
昔からあった「必要とされることで価値を保つ」生き方が、売上や責任という形で強く出ていただけだったのだと思います。

役割を離れて、やっと休めた。けれどそのあと、虚無がきた

店長としての働き方には、あるとき限界がきました。
私は店長と社員を辞めました。

そして、そのあと一か月ほど休養しました。
その休養期間は、正直かなり幸せでした。
思いきり休めたからです。
ずっと張りつめていたものが一度ゆるんで、やっと休めたという感覚がありました。

ただ、本当にしんどかったのはそのあとでした。
スタッフとして働き始めてから、大きな虚無がきました。
あんなに無敵だったのに、どうしてこんなに弱ってしまったのだろう。

私は何者なのだろう。

そんな感覚がありました。
今振り返ると、あれは役割を失ったことそのものより、価値の置き場を失った感覚だったのだと思います。
この感覚は、役割と自分の価値が強く結びついていたことともつながっています。
そのことは、別の記事で整理しています。
役割と自分の価値が強く結びついていたこと

店長として戦うこと。
売上を作ること。
必要とされること。

そこに自分の価値を置いていたから、それがなくなったとき、自分の輪郭まで薄くなったように感じたのだと思います。

休養そのものは幸せでした。
でも、役割を離れたあとに残った空白は、思っていたより大きかった。

私はそこで初めて、自分が何に支えられて生きていたのかを見せられた気がしました。

「役割=自分の価値」だと気づいてから、休むことの意味が変わり始めた

そのあと、自分の心の動きを少しずつ言葉にしていく中で、ひとつ見えてきたことがありました。
私はずっと、役割と自分の価値を強く結びつけていたのだと思います。

店長であること。
売上を作ること。
必要とされること。
頑張ること。

それが、そのまま自分の価値のようになっていました。
だから、役割が揺れると価値まで揺れた。
休むことも、ただ体を休めることではなく、「価値を証明していない自分」に近くなってしまっていた。
あの頃の苦しさは、そこにあったのだと思います。

でも、本当はそうではありませんでした。
役割が変わっても、自分の価値まで消えるわけではない。
売上を上げても上げなくても、私は私です。
活躍していても、していなくても、私は私です。
そう思えるようになるまでには時間がかかりました。

けれど少しずつ、ここまで生きてきた自分そのものに価値があると思えるようになってきました。
頑張っている日だけでなく、疲れている日も。
失敗した日も。
静かに過ごしている時間も。
ただ生き延びたと思う日も。

そういう全部を含めて、自分は尊いと思える瞬間が増えてきました。
休めるようになったのは、休み方の技術を覚えたからではなかったのだと思います。
自分の価値の置き場が、少しずつ変わってきたからでした。

今の私にとって休むことは、「自分を尊重すること」になった

昔の私にとって、休むことは証明を止めることでした。
でも今の私にとって、休むことは少し違う意味を持つようになりました。

今の私にとって休むことは、自分を尊重することに近いです。
何かの役に立つために休むというより、何にも縛られずに好きに過ごすこと。
外の評価や生産性に追われず、自分をちゃんと休ませてあげること。
そんな感覚です。

もちろん、昔の回路が完全に消えたわけではありません。
最近も、仕事で評価されて昇格の話を打診されたときに、昔の「もっとやれる」「もっと背負える」「結果を出したい」という感覚が静かに起きてくるのを感じました。

でも今は、そこで少し立ち止まれます。
自分の中で、「待て待て、落ち着け。自分のペースを崩すな」と言えるようになってきました。

無茶をしてまで証明しなくていい。
黙々と、自分らしく働けばいい。

そうやって、自分を止められる瞬間が少しずつ増えてきています。
休むことは、前に進むのをやめることではないのだと思います。
自分を壊さず、長く進むための一部です。
昔の私には分からなかったことですが、今はそう思っています。

おわりに

休むことに罪悪感がある人は、周りからは真面目で責任感があるように見えるかもしれません。
実際、私も長い間そうでした。

でも今振り返ると、あの罪悪感の奥には、休まず動き続けることで自分の価値を支えていた構造があったのだと思います。
昔の私にとって休むことは、証明を止めることでした。
でも今は、自分を尊重することだと思っています。

何をしていても、していなくても、自分の価値は消えない。

そう思えるようになると、休むことの意味は少しずつ変わっていくのかもしれません。

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