人と比べると苦しいのは、自分に価値がない気がしていたから

人と比べると苦しい。
40代になってから、その感覚はむしろ強くなった気がします。
責任ある立場にいる人。
年収の高い人。
家庭を築いている人。
人から見て、順調に進んでいるように見える人。
そういう人を見るたびに、私は苦しくなっていました。

でも今振り返ると、苦しかったのは、相手が持っているものが目に入ったからだけではなかったのだと思います。

 その人たちが持っているものを、自分は持っていない。
その事実が、そのまま「自分には価値がないのではないか」という痛みにつながっていました。
昔の私は、仕事やお金や結婚を、人生の一部として見ていませんでした。
それを持っているかどうかで、自分の価値まで決まるように感じていました。
だから比較は、ただ他人を見ることではなく、自分がどちら側の人間なのかを確かめるような行為になっていました。
この記事では、私がなぜ人と比べると苦しかったのか、そしてなぜ少しずつ比較に使うエネルギーが減ってきたのかを整理してみます。

比較していたのは、「価値のある人生」だった

たぶん私は、他人と比べていたというより、自分の中にある「価値のある人生」と今の自分を比べ続けていたのだと思います。
仕事、収入、立場、結婚。
そういうものが欲しかったのも事実です。
でも、欲しかったのはそれ自体だけではありませんでした。
それを手に入れた自分なら、ようやく安心できる気がしていた。
「これなら自分には価値がある」と思える材料が欲しかったのだと思います。
だから比較は苦しかった。
相手が持っているものが、そのまま自分の価値を測る材料に見えていたからです。

比較の奥にあった怖さ

遅れているように見えることより、その遅れを自分の価値の低さとして受け取ってしまうことの方がきつかった。
結局いちばん怖かったのは、「自分には価値がない」と感じてしまうことだったのだと思います。
自分が何を持っているか以上に、持っていない自分をどう見てしまうか。
そこが、いちばん痛かったのだと思います。
比較しても救われなかった
この苦しさは、頑張れば終わるものではありませんでした。
比べて、足りないものを見つけて、また追いかける。
少し埋まっても、また別の足りなさが気になる。
その繰り返しでした。
比較は、自分を前に進める力にはなりませんでした。
むしろ、自分を追い込み続ける燃料になっていました。
比べるたびに強くなるどころか、すり減っていただけだったと思います。
少しずつ比較が減ったのは、前向きになれたからではありません。
苦しい時期を何度も越える中で、この物差しで自分を測り続けても救われないと分かってきたからです。
比較しても、失ったものは戻らない。
比較しても、不安は消えない。
外の評価で自分を確かめ続けるより、自分をどう扱うかの方が大事だと分かりました。

結び

今でも「いいな」と思うことはあります。
羨ましいと思うこともあります。
ただ、その比較をそのまま自分の価値の判定につなげることは減りました。
人からどう見えるかより、自分を壊さずに生きること。
そのことを大事にするようになってから、比較の苦しさは前より弱くなりました。
たぶん私は、比較をやめたというより、
比較しても救われないと分かってきたのだと思います。
それなら、勝てるかどうかより、少しずつでも穏やかに前へ進めることを選びたいです。

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