頭では分かっているのに、比較をやめられない理由

前回の記事では、人と比べると苦しいのは、
比較がそのまま自分の価値判定になっていたからだと書きました。
記事を読んで、こう感じた人もいるのではないでしょうか。

それは頭では分かっている。
でも、比較は止まらない。

私もそうでした。
比較しないほうがいいことは分かっている。
比べても苦しいだけだと知っている。
それでも、SNSや他人の近況を見ると心がざわつく。

今振り返ると、比較は、ただの考え方ではなく、
反射的に起こる反応になっていたのだと思います。
今回は、そのことを整理してみます。

頭では分かっているのに、止まらない苦しさ

比較が苦しいのは、頭では分かっていても止められないからです。

「人は人、自分は自分」
「比べても意味がない」

そういうことは、頭では理解できます。
理屈としては正しいと思います。

でも実際には、誰かの成功や近況を見た瞬間に、
先に起きるのは考えではなく反応でした。

胸がざわつく。
焦る。
置いていかれたような気がする。
自分だけが止まっているように感じる。

そのあとでようやく、
「比べても意味がない」
と頭が追いかけてきます。

だから比較が止まらないのは、
自分が未熟だからではありませんでした。
もっと自動的で、もっと深い反応だったのだと思います。

比較は、自分の価値を確かめる反応になっていた

前回の記事でも書いた通り、私にとって比較は、
ただ人と優劣を比べることではありませんでした。

仕事。
収入。
立場。
結婚。

人から見て順調に見えるかどうか。
私はそういうものを、人生の一部としてではなく、
自分の価値を示すものとして見ていました。

今回あらためて見えてきたのは、
それが頭で選んでやっていることではなく、
すぐに起きてしまう反応だったことです。
だから、やめようと思っても簡単には止まらなかったのだと思います。

正論で止まらないのは、生存戦略に近かったから

こういう反応は、正論だけでは止まりません。
なぜなら、比較がただの思考の癖ではなく、
長い間、自分を守る術にもなっていたからです。

外側で価値を示す。
役に立つ。
評価される。
遅れない。
落ちない。

そうしている間だけ、少し安心できる。
自分を保てる気がする。

もし比較にそんな役割があったのなら、
それは単なる悪い考え方ではなく、
生存戦略に近いものだったのだと思います。

だから、
「もう比較するのはやめよう」
と頭で決めても、すぐには止まりません。

長い間自分を守ってきた反応は、
正論では簡単にほどけないからです。

やめる前に、まず「そうせざるを得なかった自分」を知る

だから比較を減らしたいなら、
最初にやることは、自分を責めることではないのだと思います。
「また比べた」
と責めるより先に、自分の中で何が起きているのかを見たほうが前に進みやすいです。

私は、比較してしまうたびに、その奥を少しずつ見るようになりました。

何に反応したのか。
何を失った気がしたのか。
何が脅かされたように感じたのか。

そこを見ていくと、単なる嫉妬や未熟さではなく、
不安や怖さがあることが見えてきました。

つまり比較の奥にあったのは、
責めるべき弱さだけではありませんでした。
自分を守ろうとする動きでもありました。
ここが少し見えるだけでも、苦しさは少し変わります。
それだけでも、自分を責める強さは少し弱まります。

締め

頭では分かっていても、比較は止まらないことがあります。
それは、理解が足りないからではありません。
比較が、反射的に起こる反応になっていたからです。
しかもその反応は、長い間、自分を守る術にもなっていました。
だから、正論だけでは止まらない。
それは、おかしなことではないのだと思います。

大事なのは、すぐに比較をゼロにすることではありません。
反応してしまう自分を、前より少し違う目で見られるようになることです。

私も今でも、
「いいな」
「自分は遅れているかもしれない」
と思うことはあります。

でも前より少しだけ、それをそのまま
「自分には価値がない」
につなげることは減りました。

その代わりに、
「ああ、自分はまた反応しているんだな」
と見られることが増えました。
それだけでも、前とは違います。

比較をやめろ、という話ではありません。
まずは、なぜやめられなかったのかを知ること。
そこから、自分を責め続けるだけの状態を少しずつ抜けていく。
私は、その順番のほうが現実的だと思っています。

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